谷崎 潤一郎 作
読み手:坂井 あきこ(2025年)
私は久しい以前から万年筆を使つたことがなく、日本紙と西洋紙と、二た通り原稿用紙を作つておいて、日本紙の時は毛筆、西洋紙の時は鉛筆を使ふやうにしてゐる。これは趣味と云ふこともあるのだが、私の場合は、寧ろ実際の上の必要が然らしめたのである。元来万年筆は墨を磨つたり含ませたりする手間がないだけ、毛筆よりはずつと速く書ける訳だが、不幸にして私には、此の万年筆の持つ長所が全く何の役にも立たない。なぜかと云ふと、私は非常に遅筆であつて、一行書いては前の方を読み返したり、立ち上つて室内を歩き廻つたり、茶を飲んだり一服吸つたりして、徐ろに考へながら後をつゞける・・・
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