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横光 利一

琵琶湖

読み手:入江 安希子(2023年)

琵琶湖

著者:横光 利一 読み手:入江 安希子 時間:13分46秒

 思ひ出といふものは、誰しも一番夏の思ひ出が多いであらうと思ふ。私は二十歳前後には、夏になると、近江の大津に帰つた。殊に小学校時代には我が家が大津の湖の岸辺にあつたので、琵琶湖の夏の景色は脳中から去り難い。今も東海道を汽車で通る度に、大津の街へさしかかると、ひとりでゐても胸がわくわくとして、窓からのぞく顔に微笑が自然と浮かんで来る。こんなひそかな喜びといふものは、誰にもあると見えて、ある夏のこと、私の二十一二のころ大津から東京へ行くときに、二十二三の美しい婦人が私の前の席に乗つたことがあつた。私は東京近く来るまで、その婦人と一言も言葉も交へなければ、顔も見合したこともなく坐つて一夜を明したが、大森まで汽車が来かかつたとき、突然その婦人は私に、・・・

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