夏目 漱石 作 硝子戸の中 三十一~三十五読み手:上田 あゆみ(2024年) |
三十一
私がまだ小学校に行っていた時分に、喜いちゃんという仲の好い友達があった。喜いちゃんは当時中町の叔父さんの宅にいたので、そう道程の近くない私の所からは、毎日会いに行く事が出来悪かった。私はおもに自分の方から出かけないで、喜いちゃんの来るのを宅で待っていた。喜いちゃんはいくら私が行かないでも、きっと向うから来るにきまっていた。そうしてその来る所は、私の家の長屋を借りて、紙や筆を売る松さんの許であった。
喜いちゃんには父母がないようだったが、小供の私には、それがいっこう不思議とも思われなかった・・・